岡本 早苗氏 『第一級無線通信士合格体験記』

普通の主婦の方が第一級無線通信士に合格された時の体験記です。


モールス(CW)へのこだわり。

開局して記念すべき第一声はCWにしょうと心に決めていました。

でもそのCQは眠くなるような速度のCWでした。モールスをされる方たちは

皆さん親切で、私のような初心者にも根気よく相手をしてくださったのです。

そして1アマ受験のために始めた和文CW.せっかく覚えたのだから

欧文のCWと並行してQSOしていました。ところが日本の局とお話

するには当然欧文より和文が簡単なのはいうまでもありません。

関西和文電信グループとの出会い。

その頃 欧文での交信にもの足りなさを感じてたので次第に和文CW

にのめり込んでいったのです。そのなかで関西和文グループというのが

あると知りました。 毎日のように和文交信の相手をして頂いているうち

私も、会報づくりやグランドミーテングのお世話をするようになっていました。

通信士への挑戦

和文CWを楽しんでいらっしやる方の多くは1アマ。特に関西和文

グループの皆さんの半分は通信士などのプロの方でした。

そんな折、和文交信の知人で一通受験中の方から、通信士の受験を

勧められたのです。

でも専門知識を受けていない普通の主婦が、独学でアマ無線とは

難易度に格段の差がある通信士の試験なんて合格するはずがない。

最初はしり込みしてたのが、持ち前のチャレンジ精神に火がつき、

とうとう受験にトライすることを決意したのでした。

多分私のような主婦が,この体験記に登場したのは初めてじゃないかと思います。東京から関西に嫁いですぐ,主人の影響で始めたアマチュア無線が,今にして思えば,1級通信土合格への第一歩だったのです。好奇心が強くて負けず嫌いの普通の主婦が,1通信士のライセンスを得るまでの道のりを聞いてください。ただし,How to studyとして読まれる方には余り役に立たないかも知れません。ああこんな人もいるんだなと軽い気持ちで読んでいただけるといいのですが・・・

* アマチュア無線との出合い
主人が結婚前から楽しんでいたこの趣味も,私にとっては全く理解の外でした。特にわけの解らないモールスでの交信は,騒音外以の何ものでもないと思っていました。 でも,そのうち“門前の小僧…”で,半年間に電話級,2アマとたて続けに受験し,JE3LWBというコールサインで2アマで開局,その1年後には1アマに合格。あんなに嫌っていたのにと,主人も目を白黒することしきりでした.。

初めは,世界中でただひとつ自分だけのコールサインが与えられるのが魅力でしたが,始めてみると本人の取組み次第で多種の楽しみ方が出来る広い間口と奥行きがあることに気付きました。私の場合,1アマ合格後に始めたHF帯でのSSBとCWによる海外交信と,和文での交信がかなりのウエートを占めています。特にモールスは,開局第一声がそれであったように大好きなもののひとつで,後の通信士の受験の際,大きな助けとなりました。

※2通受験
ご存知のように,電離層反射による海外交信は,太陽黒点数の増減によりほぼ11年周期で伝搬状況に上限と下限とを繰り返します。私が海外交信を始めたときはちょうどこのサイクル21の上昇期に当たり,メインバンドの21MHzで思う存分寝る間も惜しんで熱中しましたが,ミニマムに近づいて来ると特に冬場はバンドに閑古鳥が鳴き,近くの人達と和文やSSBでおしゃべりをする程度で,何かもの足りなさを感じていました。

そんな折 和文交信での知人で1通受験中の方から通信士の受験を勧められました。私に出来るかしらと思いながらも,1アマ以来久しく,2通にチャレンジすることにしました。

*2通予備試験に向けて
さて,私が2通受験を決意したものの,主人はどちらかと言うと反対でした。現役の学生ならともかく,アマ無線をしているだけの素人が,アマチュアとは難易度に格段の差がある通信士の試験になんて合格するはずがない,それに勉強時間のやりくりは,どうするのかと‥・。で
ここで,男性には,特に未婚の十代,二十代の方にはとうてい理解しにくい,専業主婦でない私の当時の生活時間を紹介します。炊事,洗濯,掃除などと日常の雑事,幼稚園の娘の世話,これに加えて家業(お風呂屋です)の手伝い,時折するアマ無線連盟主催の講習会の講師,アマ無線の雑誌に月1回海外交信に関する記事の執筆と,まさに“お母さんは元気人”の見本みたいな毎日でした。主人の心配する空時間の捻出は,睡眠時間を削る以外になかったのです。

それでも私の決意が堅いことを知ると,とうとう主人も折れて,出来る限りの助力をするから,その代わりがんばれと言ってくれました。早速問題集を買って来て,中を見て“しまった”と思いました。受けるなんて言わなければよかったと思ったのが実感です。徽積分なんてとっくに忘れているし,こんな難しいのを科目免除なしでやって行かなければならないなんてと,内心気の遠くなる思いがしました。

そこで私に代わって,問題集と本誌を参考に,問1から問5までの各設問ごと
に詳細に傾向と対策を練り,問題を絞ってくれたのは主人です。59年8月の
予備試験の3か月前に勉強を開始しました。約60問です。理解しながら覚え
るにも時間が無いのでひたすら書いて、書いて‥
必殺“丸暗記”です。仕事中も空時間
があると,5分とか10分とかこま切れに
勉強しました。どこへ行くにもコピー
した問題と,解答を貼ったサブノートが
一緒でした。あとは夜中に2時間位,眠
くなるまでしました。そのかいあって,
1回で予備試験にパス。
嬉しかったけれども、これから受験する
科目の多さを思うと不安いっぱいでした。

*いよいよ2通本試験
慣れない予備試験に全力投球だったので,59年9月に設備管理だけ受けて合格。
60年3月は,最大限がんばって,内法,外法,地理,空中線,無線機器,英語,
電気通信術の7科目を受験。このときの私の毎日は,まさにパニック状態で,
睡眠時間は平均3〜4時間。頭の中は,菜の花畑にチョウチョがひらひら(?)。
特に時間を費やしたのが電気通信術で,時間喰いの代表でした。

この頃、何年か続けているアマ無線のおかげで,モールスはかなりの速度を送受信出来るようになっていました。欧文は,短い交信なら150/s,和文で普通の交信なら120/s程度です。アマチュアでは,特に和文では,速度が上がってくると暗記受信に切り替えますが,私もずっとそれでやって釆ましたので,2通の速度の,それも電報形式の筆記には,ほとほと参りました。和文で80文字,欧文で100文字位しか書けないのです。
しかたなく1日3回,それぞれ1時間はどかけて練習しました。時間喰いというのはこのことです。一発勝負の電気通信術は,出来るだけ早い時期にパスしてしまう方が,精神的にも時間的にも楽なようです。 結局このときは,業務英語に悩まされた英語を除いて一挙に6科目合格。

※試験会場にて
予備試験場でも,本試験場でも,常に現役の受験生にはかなりのプレッシャーを与えられました。 周りを見回すと,私のように趣味で受けているような女性は皆無だし,何やら難しそうな問題を広げているし,また電気通信術のときには,手くびの返しもあざやかに,たて振り電鍵を練習していました。私はと言えば,前述のサブノートと,長年使い慣れたエレキー(マニュピレータはスクイズ操作が出来ないように他のシングルのものに交換,かつ附属電源)を持って,心細い思いで待機していたものでした。

※2通合格
60年5月,2通の合い間に,やはり一緒に通信士受験中の友人に勧められ,特殊無線技士(多重)を受験,合格。

同年9月,唯一残った英語を受験。今度は前回泣いた業務英語を中心に勉強しました。ちなみに,辞書持込みが許可になっていない最後の年でした。同年11月1日,待ちに待った2通合格の日です。通知の配達があった後,さすがに郵便受けからそれを取り出す勇気がなくて主人に行ってもらいました。�サインをしながら部屋に入って来た主人を見たとたん,目の前がボーつとかすんで,あとは涙をポロポロ流しながら,手をとり合って大喜び。不可能だと思っていたことをやり通せた喜びは,格別のものがありました。もちろん1アマ合格のうれしさの比ではありません

翌年は,もう一つうれしいことがありました。アマ無線の世界で,日本女性として初めて,アメリカのアマ無線連盟から“オナーロール”という名誉の称号がおくられました。 これは全世界を319地域に分け,そのうち310地域以上の国々と交信したアマ無線家に与えられるもので,日本では今まで100名ほど与えられていますが,すべて男性でしたこのことが朝日新聞の夕刊トップで報じられると、あくる日から新聞,テレビ,ラジオ,雑誌など,いろいろなマスコミからの電話が鳴り続け,取材攻勢が続きました。 全国放送のテレビにも出演しましたので,どなたかご覧になった方もいらっしゃるでしょうね。一生のうちで,新聞に載ったりテレビ出演したりなんて,よほど良いことをしないと,あるはずが無いと思っていましたので,一時的ではあっても急激な生活変化に惑いました。思いがけず貴重な経験が出来たのは,アマ無線をしていればこそでした。

※そして1通へ
2通合格通知書をよく見える所に貼って,
うれしさの余韻を噛みしめていた頃,一緒に
2通に合格し,続き番号の免許証をもらった
友人から,合格祝いの受験申請用紙が送ら
れて来ました。それに「2通じゃ喰えねえよ」
とにくまれ口をきく悪友もいたりして,周りの
ハム仲間はしきりに上まで行くように勧め
ました。よく考えてみれば,2より1の方がいい
に決まっているし,頭の上にもうひとつ残って
いると思うと気になって仕方がありません。
ここはひとつ,2通が限界だと自分勝手に決め込んでいないで,がんばりついでにやってみようじゃない,ということになりました。そして61年2月の1通予備に向けて,前述の用紙で申請しました。
例によって,主人が1通と2技から問題を絞ってくれて,いざ勉強を始めようという矢先,体に変調をきたし,2通受験のときにつかんだ生活のリズムがすっかり狂ってしまいました。つわりのため気分が悪くて,ろくに勉強も出来ず,とうとう2技の分は手つかずで2月の予備を受けるはめになってしまいました。結局,このとき5問中4問が2技から出題され,不合格に終わりました。万全の体勢で臨んでだめなら,自分の無力に諦めもつきますが,出題傾向をつかんでおきながら手つかずだったのか悔しくてなりません。ヨシ,このうえはと,この悔しさを同年6月の2技予備試験に向けることにしました。そして当日,出産を来月に控えた朝潮みたいな私は,他の受験生の眼が気にはなりましたが,無事答案を書き終え,7月2日付の2技予備試験合格通知を手にしました。

*1通本試験
さすがに元気な私も,赤ん妨をかかえての1通本試験の勉強は,何度も挫折しかけました。幸いに,今度は時間喰いの′電気通信術は免除でしたが その分,2通合格後から近所の小中学生相手に家で英語を教えていましたので,2通のとき取れたまとまった時間が家業の定休日以外は取れなくなりました。主人の協力とハム仲間の励ましが無かったなら,多分途中でギブアップしていたでしょう。

そのおかげで,62年3月は英語,内法,外法,地理,同年9月は空中線,そして最終的に、63年3月は無線機器,設備管理を受け,同年4月28日付で,ついに憧れの1通合格にたどり着きました。

※最後に
2通を受け始めた頃,幼稚園の年長組だった長女も今は5年生になり,その間にわんばく坊主の家族も増えました。経験(受験)した者にしかわからない,精神の起伏を伴う孤独な作業の期間も,終わってみれば長いようで短い,短いようで長い,私の人生における思い出深い大きな節目となりました。

仕事を持つ主婦にとって,家族の協力なしには,時間的制約などの種々のハンディキャップをとてもくつがえせるものではありません。通信士の試験を受け始めるときに約束してくれたように,最後まで最大限の助力を惜しまなかった主人と,かまって欲しい時期に余り遊んでやれなかった娘に,心からの感謝の気持ちを送ります。そして娘には,私のうしろ姿を見て,今すぐでなくても何かを感じてくれたらなと,心秘かに願っています。

前述のいっしょに2通に合格した友人は,ひと足先に1通,1技を手中にし,今春大学業後に海上保安官になりました。私も,船舶通信士としてやってみたいという夢はありますが,家族の中でいい妻,いい母でいることが,今の私にとって最もふさわし働き場所のような気がします。


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